ひとは「人生の意味」を問わずにはいられない
こんにちは、たぬまんです。
きょうは非常に重たいタイトルをつけてみました。
人生の意味とは?
うん、重たいw
こんなことを考えるのって、はっきりいって人間くらいですよね。ペットの犬や水槽の金魚が「わたしの生きる目的って?」とかいって悩んでいるのは想像つかないわけなんですけれど。
これ、べつに現代人だからっていうわけじゃなくて、ずーっとずーっと前から、昔の人も、ついついこの問いを投げかけてしまう、ヒトっていうのはそういう生き物なんだと思います。
わたしも例外ではなく、「人生の意味とは?」「生きる目的とは?」という超難題におもいを巡らせてしまうことがあります。そして確実に帰ってこれなくなるというw
もうね、こんなことを考え始めたら、100%迷子になります。戻ってこれません。だって、超難問ですからね。
この世に生まれ出る瞬間に、「あなたの人生の目的は○○ですよ~」って、ちゃんと教わったのならまだしも、だれかにそんなこと言われた覚えはないし、100歩ゆずってかりに教えてもらっていたのだとしても、それを覚えていないわけで。
気が付いたらこの世界に産まれていて、いつの間にか自我が芽生えていた。そして自我が芽生えちゃったもんだから「人生の意味」なんてものを考え始めるという。
スリランカ仏教の長老のおはなし
人生の意味とはなんでしょうか? 私たちが生きる目的はなんなのでしょうか? この、人間を100%迷宮入りさせる難問に対して、スリランカのお坊さんは、このように答えています。
生きる意味とか考えるのやめな、あたまがイカれるから
とw
アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ仏教の長老のお言葉ですけどね。
長老はこのように話します。
人生に意味があるかないかということは、人間が考えるべきものではありません。もし生まれたことに意味があるならば、それは私たちが真っ先に知っているはずです。調べても調べてもなかなか見つからないのが「生きる意味」なのです。調べて見つからないということは、ないということです。もしかしたらあるかもしれません。でも、誰も見つけていません。だれも見つけられないものは、あると思うより、ないと思った方がいいのです。
先生、あざーっす!!! って感じですよね。ある意味とても清々しい。世界のケイスケホンダ的には "きよきよしい" になるかと思いますがw、人生の意味とかそんなもん考えたって分からないんだから、そんなことに頭を使うのはやめなさいと、そうおっしゃるわけです。
超一流のお坊さんがいうことですからね、今日からこの考え方を採用してもいいでしょう。
なので、スマナサーラ長老マンセーとなった方は、人生の意味なんて考えないということで、ここでよけいな思考は停止してオッケーということになります。
人って、死んだらどうなるの?
でもね、
そうはいってもね、
やっぱり考えてしまうのです。
自分って、なんで生まれてきたのかな・・・
ってw
そこでわたくし、もう一歩だけ突っ込んで考えてみたんです。いろいろと調べてみたんです。これまで参考にした本の一部を紹介しますと、
はい、臨死体験の本です。
つまり、
ひとって、死んだらどうなるの?
ってことなんですけれども。
たとえば脳の機能が完全に停止しているとか、医学的には「そのときあなた、完全に死んでましたよね」っていう状態のときに、まれにこの世とはちがった世界を体験する人たちがいて、そのひとたちが共通して話すのは、
死んだ後も、自分は存在していた
ってことなんですね。
肉体の自分、からだの方は機能を停止していて、まさに死んだ状態なんだけれども、それを客観的に見ている「もうひとりの自分」がいると。これはいわゆる、魂であり、霊であり、意識体のことです。それをどう呼ぶかはともかくとして、どうやらわたしたちの本体は、この世的に「死んだ」あとも存在し続けるらしいのです。
臨死体験者が共通して話すのはそういうことなんです。
存在し続けるもの
プルーフ・オブ・ヘヴンは、脳神経外科医がみずから臨死体験をするわけなんですが、その自分自身の体験を、脳の分野を専門とするスペシャリストとして分析しています。
喜びから人生を生きるのアニータ・ムアジャーニさんは、末期がんから死の淵をさまよい、そして臨死体験をするのですが、こちら側に戻ってきたあと信じられないスピードで、全身をむしばんでいた癌が消滅するという、普通に考えたらあり得ない奇跡体験をしています。
どうやら「死」というのは、まとっていた肉体を脱ぎ捨てるだけの行為に過ぎず、わたしたちの「本体(意識体)」はずっと存在し続けるもののようなのです。
こういったことは、自分自身が実際に体験してみないことには、こころの底から「わかる」、本当の意味で「理解する」というのは難しいけれども、とりあえずそうだと仮定してみる。つまり私たちは、
存在し続けるもの
だと考えてみる。それを意識と呼んでも、魂と呼んでもいいけれど、とにかく私たちの「本体」はそういう存在なんだと。だから身体は、いわばこの世をドライブするための「車」みたいなものといえます。
生まれ変わりの神秘
まず第一段階としてここまで来るんですが、つぎに考えるのが「生まれ変わり」です。
輪廻転生ともいいますけれども、まあこれも臨死体験とおなじで究極的な理解っていうのは難しいテーマですが、でもわたしたちは色んなところで「ひとは何度も生まれ変わるんだよ」と聞かされていて、真相はわからないけれどもどこか、「そうかもしれないな」と思っているところがある。
さらにごくまれに、前世の記憶をもって生まれてくる子どもがいる。
こっちの本は読んだことがないのですが、ジェームズ君というアメリカの少年のノンフィクションで、太平洋戦争時代に戦闘機に乗っていた記憶があるといいます。
当時の仲間のなまえや、実際に存在した戦闘機のことを話す息子をみて、その整合性を確かめるために両親がひとつひとつ検証していく。そして息子が輪廻転生を体験しているという揺るぎない確証を得たと、そういう話です。
どうして輪廻転生を繰り返すのか?
ここまでの話をね、もしかしたら「そうかもしれない」と仮定してみるんです。
つまり、わたしたちの本体は意識体(魂・霊)であって、この世には肉体(車)をまとって人生をドライブしに来ている。ずっと存在し続けるものであり、さらになんどもなんども生まれ変わりを経験していると。そう考えてみる。すると次にくるのが、
なんで何度も生まれ変わるの?
という疑問です。
だってそうじゃないですか。思い通りにいかない…、毎日苦しいことばかり…、ときには消えたいとさえ思うこともある…。そんな「この世」に、どうして何回も生まれ変わるのかと。もし苦しさしかないのであれば輪廻転生しなければいいのに、なんで好き好んで何度も生まれ変わるんだと。
そうなりますよね。
その視点で見るとですよ、なんで何度もなんども生まれ変わっちゃうんだと考えたらですよ、もう答えは、
だって、楽しいんだもんwww
以外にないと思うわけですよ。
人生は文字どおり「ゲーム」である
もっと突っ込むと「この世でしかできない体験があるから」じゃないかと思うわけです。あの世じゃできないこと。肉体を持ち、たくさんの制限があるこの世でしか体験できないことがあり、それを楽しみにきている。味わいに来ている。前回やり残したことを体験しに来ている。
ふだん私たちは、毎日起こることを、こっちは「いい出来事」で、こっちは「わるい出来事」だと勝手に決めている。
たとえば宝くじが当たったらいい出来事で、車の事故に遭ったら悪い出来事だと考えるわけですが、ほんとうの自分からすればそんなのはどっちでもいいことで、すべての体験を等しく「味わって」いる。だからすべての体験に価値がある。いわば、
「超リアル人生ゲーム」を楽しんでいる
それがこの世なんじゃないかと思うわけです。
「生きる目的」は自分で決める
ゲームって、思いどおりにいかないから、難しいからこそ楽しいわけじゃないですか。サッカーだってゴールキーパーがいなかったり、手をつかっていいんだったら何も面白くないわけで。シミュレーション仮説なんていう概念もあるけど、ともかく、
制限がいっぱいあって、願ったからといって必ず叶うわけじゃなくて、タイムラグがあって、思いどおりにならないことばかり。転んだら痛いし、蚊に刺されればかゆい、どこからどう見ても現実(リアル)としか思えない、この超スーパーリアル人生ゲームを楽しんでいる。
超難しくて苦しいことも多いんだけど、そんな人生ゲームが楽しいから、ついつい何度もやってしまう(生まれ変わってしまう)。だから、
「人生の意味」は自分で決める
究極的には何をしたっていい。だから今のところ戦争もなくなってないし犯罪もなくなってないけど、そんなこの世で、自分はどのように生きたいのか? それを自分で決める。
「わたしは○○のために生きる!!」 そう宣言するところから本当の人生がはじまる。だから、人生の意味って何ですか? ではなくて、逆にわたしたちは人生から問われているのです。「あなたはどう生きたいのですか?」と。
いいんじゃないですか、紀州のドンファンみたいに「女のために生きる」、そんな人生も。
わたしは楽しくいきたいから、毎日笑って過ごすんだ。たとえつらいことや苦しいことがあっても笑顔でいるんだ、そういう人生だっていい。精神論みたいだけど、精神論の人生も悪くない。
思う存分冒険してください。そして笑ってください。
とにかく私たちは人生に慎重になり過ぎなんです。もうなんていうか、ビビりすぎなの。なんども生まれ変わるっていったって、今回の人生はこの一回こっきり。ビビってる間にあっという間に人生終わっちゃいます。
だから人生なんてゲームなんだと、この冒険をとにかく楽しむんだと、そういう気持ちで生きていけばいいんです。どんどんチャレンジしてみたらいい。
ゲームは真剣にやった方が面白いけれど、だからといって深刻になりすぎる必要はないんです。だって、所詮ゲームなんだから。この「ゲーム」という視点を持つと、心が少しだけ軽くなります。
「生きる目的とは?」なんて思いつめちゃうときは大概、人生に「前のめり」になり過ぎなの。あまりにも深刻に考えすぎなんです。たとえばだけど、いまの学校や今の仕事がどうしても嫌なのであれば、それこそ死にたいほどのレベルなのだとしたら、そんなのはやめちゃえばいい、逃げちゃえばいいんです。ほかにも道はいくらでもあるし、なんとでもなるんだから。
たのしいから笑うんじゃないんです。笑顔だから楽しくなるんです。ほんとに困ったときは「ま、いっか」です。バカボンのパパみたいに「これでいいのだ」でもいい。
とにかく、この人生を、目いっぱい楽しんでください。味わってください。思う存分冒険してください。そして笑ってください。
と、自分自身を精一杯はげましたところで、今回は筆をおきたいと思います <(_ _)>